大野晋さんの「日本語の源流を求めて」岩波新書と出会ったのは10月に帰国したときのことです。
彼はもともと日本語の古語の第一人者ですが、その彼が「ドラヴィダ語語源辞典」と手に入れ、その中のタミル語という、日本語に対応する単語を多く持つ言語に出会ったそうです。
そして対応する言葉を調査し500以上の言葉が対応することを発見しています。彼の考えでは、日本語とタミル語は同系語ではなく、タミル語は母体となる日本語に外来語として受け入れられた。中世にポルトガル語を語源とする言葉が大量に輸入されたように。
そして、タミル語が輸入された時代は縄文時代であり、北九州に到来したタミル人より、水稲稲作・鉄・織機の三大文明に直面し、それを受け入れると共に、タミル語の単語と文法を学び取っていった。と考えています。タミルと日本のその二つの言語が接触し、文明の力の差によって、文明力の弱かったヤマト民族が文明力の強かったタミル語の単語500(彼の調べた限り)を自己流の発音で覚え、さらに文法も覚え、五七五七七の歌の韻律や係り結びなどまで取り込んだ。と主張しています。
そこで、この書物の中で稲作に関する言葉についてのみ今日は取り上げることにします。以下は原文からの抜粋です。
陸稲はすでに縄文時代からあった。稲粒の土器への圧痕などの証拠が、最近、各地で発見されている。(途中略)水田稲作は縄文時代の日本にはなかった。ではどこから輸入されたのか。韓国南部からとする説、或は揚子江下流からという説がある。特に揚子江下流域にある河姆渡遺跡からは大量の稲粒が発掘され、それはBC5000年から7000年のものであるという。それが、日本へ渡来したという説が有力視されている。しかし、稲作の栽培にはそのための土地の設備が要る。だから揚子江下流から最初に水田稲作が到来したのなら、揚子江下流のタンボ、シロ(泥)、アゼ、クロなどを表わす古代中国語が、一緒に日本語の中に入ったはずである。しかし、タンボとかシロとかクロとかアゼとか言う言葉には、揚子江下流の古代語とひとつも対応する言葉がない。ところが2000年前のタミル語の中に、その大部分が見出される。それは何を意味するのか。まず実例を示していくことにする。
①
これは現在日本国中で使われている単語だが、平安時代の辞書『和名抄』に「畔 田界なり。和名 久呂(くろ)。一に曰く、阿世(あぜ)」とある。『日葡辞書』には「Aje(畦)またはUne(畝)。すなわち田と田の区切り、土の高くなっている所」とある。これに対応するタミル語がある。Acc-u(畦)でccという連続は日本語のZに当たる例がある。だからタミル語のacc-uと日本語のaz-eは対応する。Acc-uは、「acc-u(畦)が水を蓄えて囲んでいる田」のように使う。
②
田のクロと使うのは現在は東日本だけらしいが、昔は標準語だった。
タミル語にはKr-ampu(水田または花畑の畔)があり、kur-oに対応する。
その後、アゼ・ウネ・畑(ハタ、ハタケ)、焼畑(コバ)と続き
⑪稲(ニ)で、稲を古くはニと言った。として説明し。
粟(アワ)、米(コメ)、」糠(ヌカ)、餅粉(アレ)、粥(カユ・アマリ)、餅(モチヒ)、糟(カス)と続いている。
そして、金属と織機関連の言葉にも多く対応する言葉が存在していると説明しています。
では、なぜタミル人がはるばるインドから日本に来たのか、そしてどのような船で来たのかですが、彼はこのように書いています。まず帆船の写真があり、「実際に南インドから沖縄まで航行してきた帆船の写真である。これはインドから日本への航行が可能かどうかを実験してみようとして、岩田明氏が実際に復元建造し、航行した船の写真である。岩田氏は高校卒業後、世界を三周した経験を持つ航海士で、楔形文字の刻まれた粘土板の中に、一隻の船の建造に必要な材料を列挙した表がルーヴル美術館に所蔵されていると襲えられ、ルーヴル美術館を訪れてその資料を入手した。そしてその一覧表には舷側の肋材195本、木釘7200本というふうに記されていることを知り、その材料全部を使い、船の建造が可能かどうか南インドの造船所と協議し造船を開始した。出来上がった船は、全長15m、帆が2枚、総トン数30トンで岩田氏が船長として指揮をとり、7人のタミル人をこぎ手に雇って、1992年3月17日、南インドを出発し、コロンボ、シンガポールを経て、台湾の基隆により沖縄まで来たが、6月17日、久米島沖で大きな三角波に遭い転覆した。」
そして、日本に来た目的は「真珠」だったと仮説を立てています。
この本を読むと確かにタミル語と日本語の間に対応する言葉が多いことに認識を新たにします。しかし、この説が一般に知られていない、いやむしろ無視されているのはなぜでしょうか。ひとつには日本にタミル人の痕跡が残っていないこと。そして最大の理由はこれほど多くの対応語があるなら当然一度の来日ではなく頻繁に来ていたであろうと考えられるが、その目的がはっきりしないこと。ではないでしょうか。そして、当時のタミル人がそれほど文化が高くて航海に長けていたかどうかだと思います。
そこで、まずタミル人とはどのような集団であったかですが、タミル人がドラヴィダ語族に属するということがひとつのヒントになると思います。
ウイベキアの「インダス文明」の記述では
インダス文明 (インダスぶんめい、Indus Valley civilization) は、インド・パキスタンのインダス川及び並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明で、現在南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人によりつくられたと推定されている。考古学上は、ハラッパー文化と呼ばれ、パキスタン、パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡とする。
インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間である。滅亡については諸説あり、現在では、地殻変動によってインダス川河口付近の土地が隆起し、そのために洪水が頻発して耕地に塩害をもたらし、さらにインダス川の河道が移動したことによって、水上交通を前提とした貿易によって機能していた都市の機能を麻痺させたためという説と、後述するように砂漠化に伴って都市が放棄され住民が移住したという説がある。
また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり一部が南インドに移住した。
インダス川の氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の「せき」を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。 また、牧畜を行った。
商業 [編集]
装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造。腐食ビーズと呼ばれる「紅玉髄製ビーズ」に白色の文様を入れる技術を持っていた。支配者層の装身具だけでなく、主要な輸出品でもあった。
盛んな商業活動。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行った。「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。
以上のことを丸々信用するとすれば、ドラヴィラ人は商業の民でもあり、メソポタミアまで船で交易していたことになります。そして、繁栄していたのがBC2600年から1600年で、この時代はちょうど日本では縄文晩期からに相当します。この時代にはプラントオパールの解析により、熱帯ジャポニカの焼き畑農業が行われていました。水稲の栽培が北九州で始まったのがBC1000年ごろとの見方が一般的ですので、もし日本にタミル人が渡来していたとしたら縄文晩期ということになります。
ではいったい稲作関連にもタミル語との対応語が多いのはどういうことでしょうか。単なる偶然でしょうか。彼は、北九州に稲作をタミル人が伝えたといっていますが、少々無理があるようです。
私の考えは、もしタミル人が来たのなら伝えたのは「熱帯ジャポニカ種」の稲であり、水稲ではなく陸稲であったのではないかと思っています。なぜなら、日本で現在栽培されている「水稲」は長江から北の狭い範囲でしか栽培されていない「温帯ジャポニカ種」であり、インドから持ち込まれた稲があったとすれば「熱帯ジャポニカ」のほうがすっきりします。現在一般的な説である縄文時代の陸稲焼畑はこの時代すでに畔で仕切られた畑であったならどうでしょう。この稲作に用いられた用語が水稲が移入されても使われたと考えれば稲作に関する用語の由来のなぞが解けます。
そして、これが伝わったのは北九州ではなく、南九州かそれともその南の西南諸島であったのではないかと考える次第です。沖縄・南九州であれば、珊瑚・真珠・貝類が豊富にとれ装飾用として交易品として価値があったのではないでしょうか。


by 大陸流浪人
魏志倭人伝を読む(24)