魏志倭人伝に出て来る「一大率」に関しては、現在殆どの学者が「邪馬台国の卑弥呼が設置」したものであると考えているらしい。邪馬台が九州説であろうと大和説であろうとどちらも説明がつくらしい。
しかし、一方では松本清張を代表とする「帯方郡が派遣した役人若しくは役所」との考えがあり、この根拠としているのが、倭人伝中の一大率に関する文章である。この文章を再度掲載します。
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
松本清張の考えは、「女王が一大率を伊都国に常駐させていたのなら、なぜ諸国がこれを恐れるのか」でした。そして一大率が女王が派遣したものであれば、「女王国の船の臨検は出来ても、帯方郡の船まで臨検できる筈がない」、従って、この一大率なるものは明らかに帯方郡が倭国を間接支配するために常駐させた役人もしくは役所であるという。
しかし、帯方郡の役人もしくは役所名であればこの漢字は当て字ではないはずです。当て字でないのなら、中国のこの時代にこのような用例が当然ある筈ですが、私がネットを駆使して調べた限りでは倭人伝以外には「一大率」も「大率」も見つかりませんでした。従って、この説は説得力があるものの傍証がないために主流とはなりえません。
そして、最近ある人は、「一大国」と「一大率」の「一大」は同じであり、一大率とは一大国が派遣した軍隊であるという。しかし、彼の考えは単に思いつきに過ぎず、一大国は朝鮮に近く武器も強力であったために進駐できたとしか言っていません。なぜ進駐する必要があったのかは述べていません。
「一大率」を考えるためには、まずこの時代の中国の「刺史」がどのようなものであったを理解しなければなりません。刺史は前漢時代に全国に13州が設置されると同時に設置され、現地の官僚を監察するための「監察官」でした。その後、刺史の性格と名称の変遷があったが、魏の時代になり名称は「刺史」に戻ったが、刺史は将軍位を持って兵権の行使も行った。
したがって、一大率とは、監察官であり且つ兵権も持っていたと考えられます。単なる役人ではなかったわけです。ですから「諸国を検察し、諸国はこれを畏憚し、伊都国を治め、港での全ての船の臨検を行っていた」のです。そして常駐していた郡使も監察していました。
では誰がどのようにこの「一大率」を伊都国に派遣したのでしょう。これを理解するのは少し厄介ですが、一つのヒントがあります。「倭」という国や人や種が倭人伝には出てきますが、私の理解は、帯方郡の役人は「倭」を良く理解していなかった。彼らは、日本列島に住む人の殆どを「倭」だと理解していたのです。確かに、対馬や壱岐・北九州の沿岸部には「倭国」(倭の集落)があり朝鮮半島の南岸にも倭の集団がいました。しかし、北九州の農村部や中国地方・近畿地方の稲作生産者が「倭」であったかというと私の考えはNOです。邪馬台国連合には「倭の国」も確かに属していた事でしょう。そして、帯方郡の役人が接触していた伊都国を始め交易の民や漁民が「倭」であったために、誤解したものと考えられます。
もう一つ重要な事は、「対馬」や「壱岐」が「邪馬台国連合」に属していなかったにも関わらず、交易船がこれ等の島に船泊まりできたことです。このことも、この海域で操船していたのが全て「倭」であり、「倭」がこの海域の制海権を有していたことを説明しています。従って、帯方郡の使節もきっと「倭」の船か「倭」が操船する船で、安全に「末盧国」にたどり着いたのではないでしょうか。
もう一つ「一大率」を読み解くための鍵は「率」です。この漢字は、「一大率」が邪馬台国の役人でなく、郡が派遣もしくは名付けたのであれば当て字ではありません。そこで、この時代の用例を調べると
率・・shuai と発音する場合
3.榜样;表率;楷模 [model;example]
刺史,古之方伯,上所委任,一州表率也。——班固《汉书·何武传》
4. 又如:率下(作为下属表率);率示(示范,作为榜样);率物(做众人的榜样);率身(自身作出榜样);率时(为时人的表率);率众(为众人表率);率导(以自身的表率行为对他人进行教导)
5. 领导者,统帅,首领 [leader]
将率不能,则兵弱。——《荀子·富国》
率师以来,惟敌是求。——《左传·宣公十二年》
将率不亲,士卒不使。——《春秋繁露·五行相胜》
王之将率有如子路者乎?——《史记·孔子世家》
贪鄙在率不在下,教训在政不在民也。——《盐铁论·疾贪》
6. 部队 [army]
[葛洪]攻 [石]冰别率,破之。—— 房玄龄《晋书》
とあり、model, leader, army と、ぴったりの用例があるではないですか。
そして、率(shuai)と同じ発音の漢字に 「帥」があります。この字は「元帥」「統帥」と言うように、「軍の最高指揮者」を指しています。
従って、「一大率」とは「一大国」の「軍隊」であり「軍の最高指揮者」であるという説もうなずけます。
しかし、なぜ「一大国」の軍隊が伊都国に駐在していたかも説明しなければなりません。
一つの考えは「一大国」が、先ほど述べた「倭」人の中心であり、伊都国も「倭」人の国であったから。(この意味は、伊都国は邪馬台国連合にも属していたが、基本は「倭」人集団の一国であった。)制海権を有している「倭」が九州の「倭」種でない国が朝鮮・郡に朝貢もしくは交易する場合、必ず「一大率」の臨検を受けなければならず、そのために「一大率」は軍隊でもあったのです。そして当然「一大率」は現在の税関と同じ役割を果たし「税」を徴収していたものと考えてもおかしくありません。
もう一つの考えは、郡が「一大国」の軍即ち「一大率」を同族である伊都国に駐在させ、邪馬台国連合を監視させていた。その理由は呉との戦がまだ終わっておらず、呉が邪馬台国連合と接触するのを魏が嫌ったためであり、「一大率」にその見返りとして、船の貨物から「税」を徴収させていた。
余談ですが、後に「大宰府」と呼ばれた役所は、「一大率」が発展したものだという説がありますが、私に言わせればこれは全くの眉唾物としかいいようがありません。
多分、この「大宰府」に「大」の字があるからそのように想像したのでしょうけれど、では「宰」の字をどのように解釈したのでしょう。この字は現在の日本でも中国でも意味は同じです。
1. 杀牲畜:~杀。屠~。~牲节(亦称“古尔邦节”、“牺牲节”)。
2. 借指商贩用狡诈的手段使顾客在经济上受到损害(有的地区称“斩”)。
3. 古代官名:~相(xiàng )。~辅。太~。~官。
4. 主管、主持:主~。~制。
特に、3の古代官名の「太宰」は中国の官名であり、ある説では「唐」がこの地に進駐し設置したのが「大宰府」であったの方が説得力がありそうですね。
by 大陸流浪人
魏志倭人伝を読む(24)