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中国で川柳を詠む(2)

2012/05/10 12:05

 

前回紹介しましたように、青島のお好み焼屋で川柳を募集しています。

第二回のお題は「青」でした。結構応募が多く120首程度集まったようです。

私が応募した8首の内、「青島では 還暦過ぎが 青年部」が三等賞で配当金が70元(約1000円)でした。

これに気を良くして、4月のお題「春」にも8首応募しました。今回は応募数が少なく42首でした。しかし・・・・何と・・・私の一首が最優秀賞で420元の総取りでした。

 

その一首とは「春よ来い 歳を取っても 春よ恋」でした。

 

次回は6月で、お題は「雨」です。

 

今考えているのですがとりあえず考えたのが以下の句です。

 

1.雨降って 泥沼と化す 人の情

2.晴れ後雨 曇りがないのが 夫婦なり

3.雨宿り お店のママに 袖引かれ

4.雨宿り お好み焼屋で 酔いつぶれ

5.寂しいの 迎えに来てと なみだ雨

6.雪混じり 雨降る夜は 肌恋し

7.またダボか ラフしか見えぬ 雨男

8.雨脚と 白肌照らす イナビカリ

9.春雨じゃ 愛愛傘で したり顔

10.       今日も雨 あいつとゴルフ いつも雨

11.       あまこいし あまこいしけり あまこいし

 

11番は漢字に当てはめると

 雨恋し 尼子石蹴り 雨乞いし  となります。

 

皆さん、どれが良いか 投票して・・・・

 

 

 

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魏志倭人伝を読む(24)

2012/02/02 17:11

 

魏志倭人伝を読む(23)から、あまりにも時間が経ってしまいました。その間に多くのコメントを頂き感謝しています。その中で特に貴重なアドバイスをガリガリ君より頂きました。

ガリガリ君さんのコメントをまとめると以下のとおりです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これ都する所。が正解ですかね???
>
都は古来「先王の廟を祭る所」という意味があると思うのだが、どうでしょう?
••••••
あくまでも「ミヤコ」そのままの意味かもしれない。

 

だけど、例えば「孫権遷都建業」のように、その国に多くの城市がある場合、一か所を都(みやこ)というが、単に女王が住んでいる国(邑)を都と言うかどうか?

 

1、「「其数道里可得略」の解釈は、
 略:ここでは「省略」と読めない、大まかな、大体、おおよそ
 訳文:その戸数と距離の「おおよそ」を記すことができる
  
2、其旁国远绝,不可得
 訳文:「それ以外の国は余りにも遠いので」、詳しくは判らない (詳しい情 報「戸数と距離」を得ることができない。詳しくは判らない)

3、国:
 国家最高権力所在地
 部落(いくつか国によって締結する女王連合国に属する「国」)
 国家
 「邪馬台国女王之所都」に見える「邪馬台国」は「国家最高権力所在地」で  「都」に当たる
  
4、国邑:都、又は城市
倭人・・・依山島爲國邑・・・
ここでは「都市」の意味に近い。
古文の意味と現代単語の意味とはかなり違うように見える。

・・・・・・・・・・・・

以上を元に再度おさらいをして見ましょう。

自女王国以北,其户数道里可得略载,其馀旁国远绝,不可得详。次有斯马国・・」

は、 「女王国より北は、その戸数と距離のおおよそを記すことが出来るが、それ以外の国は余りにも遠いので詳しくは判らない。次に斯馬国あり・・・」が、ガリガリ君の解釈です。

 

そこで、問題になってくるのが、「次に斯馬国あり・・」から続く国が、「女王国より北の国」なのか、それとも「余りにも遠いそれ以外の国」なので、「戸数と距離」を記していない国なのかどうかです。

私は、「略載」を「記載を省略」と読み、「斯馬国」に続く各国が「女王国より北」に位置し、「其馀旁国は、ここに記載されていない国と判断したのですが、ガリガリ君の考えを教えて欲しいと思います。

この解釈によって、「斯馬国」から続く国の所在地が変動するからです。それと、この国名の中には、既に「戸数と里数」が記載されている「奴国」と「不呼国」が再度出て来るのも解せません。

 

それともう一つ確認しておきたい事があります。

それは「卑弥呼は邪馬台国の女王ではない。」ということです。邪馬台国には別に王が(多分)おり、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国連合の女王であり、彼女はその住まいを邪馬台国に置いていた(もしくは邪馬台国に葬られた)ということです。

このことは、「乃共立一女子王,名曰卑弥呼一人の女子を共に立て女王とする、その名を卑弥呼という)」と「邪馬台国これ卑弥呼が都する所」で判断できます。この都が、ガリガリ君のいう「あくまでミヤコ」であろうが、「卑弥呼の葬られた墳墓のある場所」であろうが変わりはありません。
それと、「年已大,无夫婿,有男弟佐治国王以来,少有者。以婢千人自侍,唯有男子一人给饮食,辞出入。居处宫室楼,城栅严设,常有人持兵守で読み取れます。
 

私は以前「魏志倭人伝を読む(15)で以下のことを書きました。

私はここまで魏志倭人伝を読み進めてきて思ったのは邪馬台国とは、以前韓国のところで出てきた「鬼神を祭る別邑」のような小さな国であり、大和朝廷時の伊勢神宮のような存在でなかったかと考えています。従って、女王卑弥呼は連合国の象徴的な存在であり、精神的にまとめる役割であり、武力的な力はなかったのではと考えています。ですから、邪馬台国はこの連合国の最南端にありそれは今の福岡県の大牟田から内側に入った山すそあたりでないかと考えたしだいです。

この考えは改めなければなりません。

現在では「卑弥呼は邪馬台国に住んでいたがもしくは邪馬台国の近くに住んでいたが)、彼女の住まいは「鬼神を祭る別邑」のような小さい邑であり、伊勢神宮のような存在」であり、弟が助けてその国(別邑)を治めていた。」のではないかと考えています。

 

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中国で川柳を詠む?

2012/01/21 11:19

 

青島にただ一軒お好み焼き屋がある。ここの親父は、サラリーマンを定年後、この地でお好み焼き屋をオープンして既に3年になる。青島では単品の日本食屋は維持が難しく、ラーメン屋もカレー屋もうどん屋も何店オープンして2年維持できずに店じまいしたことか。もう数え切れない。そういう中でこの店は希少価値である。親父は毎日店の中で常連客と飲んだくれているばかりで、何もしない。料理をするわけでもなくレジ番をするわけでもない。ただ、店の女の子や男の子に目を光らせているだけである。

 

この親父、なかなかペーソスがありいろんな事を企画して遊んでいる。今回は、「川柳大会」である。一首10元で募集し、投票で最優秀賞等を決めて集まった金を配当する。第一回目は100首ほどの応募がありなかなかの盛況だった。

 

第二回目はお題が「青」という事で2月末に締め切るらしい。

そこで浪人もヘタな川柳を応募してみた。

 

赤青を 無視して走る 色盲車

 

青蛙(チンワー)も 海腸(ハイチャン)蚕蛹(サンヨー) みな海鮮(ハイセン)

 

いまどこナ 不定期コールに 青ざめる

 

スカイプは 青島ではまだと 妻に言い

 

仰ぎ見る 九頭身に 超ハイヒール

 

青島では 還暦からが 青年部

 

アオクサを 青海苔と言い張る お好み屋

 

こめあほ~さん、ana5さん 皆さんへ 

賞金を稼ぐために 一句 提供してくださいな。 当方は春節には日本で一足早い春を楽しんできます。

 

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魏志倭人伝を読む(23)もう一度国探し

2012/01/17 16:58

 

以前、魏志倭人伝を読む(13)邪馬台国への道 で各国の比定をしてみた。殆ど遊びの域をでていないが、中には結構マトを得ていたのもあったと思う。今後、再度 各々の国について検討して見たい。

 

まず、検討を始める前に原文を再度読み直してみます。

私が、特に精査したい文章は下記の文章です。

自女王国以北,其户数道里可得略载,其馀旁国远绝,不可得详。次有斯马国・・」

 

この文章の解釈によりその後に続く国の位置の解釈も結構変化します。

 

自女王国以北「自」,場所や方向を現す詞と組み合わせ、場所の起点をあらわします。 「以」は方向や一を表す語を伴う場合、時間・方角・数量の限界を表します。したがって、「女王国より北は」となります。

其户数道里可得略载の解釈は、「可得」が重要であり、現在的に訳すると「その戸数と理数は省略して掲載しなくても影響ないが」となります。

そしてその後に続く其馀旁国远绝,不可得详は「それ以外の国は余りにも遠いので、詳しくは判らない」と訳せそうです。

すなわち、その後に続く各国名は隣接しており戸数もそれほど多くないので省略しても特に問題ないと解釈できます。そして、女王国連合以外の国は遠国でもあり情報がないと書いています。

その次に続く次有ですが、この「次にOO国がある」「次」は、何の「つぎ」即ちどこの国の次でしょうか。その後に書かれている国名の前には全て「次」が付いているのは、「国名」を順番に記していると理解できます。では最初に出て来る「次」はどの国の次でしょうか。一つには、邪馬台国の次と解釈できます。

もう一つは、この前に出て来る文章、即ち始度一海千馀里至对马国・・又南渡一海千馀里名曰瀚海,至一大国・・・又渡一海千馀里末卢国・・东南陆行五百里伊都国・・・东南至奴国百里・・东行至不弥国百里・・南至投马国水行二十日・・・南至邪马壹国女王之所都水行十日,陆行一月を注意して見ると、伊都国までは、明らかにその道筋を順番に書かれています。

始め海を渡って、対馬に着いて、また南に渡って一大国に着き、また海を渡って末盧国に着きました。東南に歩いて500里で伊都国に着きました。」その後は、「東南で奴国に至る100里、東へ行けば不呼国に至る100里・・・」としか書いておらず、その前の書き方とはっきりと変化しており、道筋を順番に書いているとは限りません。したがって、放射状に読むことも出来るわけです。

ですから、伊都国までは道順であり、その後は、伊都国からの方位と距離を単に示しているとも読めるわけです。したがって、二番目の考え方は、伊都国の「次」にある国と解釈できます。

 

私はどちらかといえば、二番目の伊都国を基点とした考えに賛同です。しかし、この場合、伊都国がどこに在ったかにより各国の場所が変わってきます。もっといえば、「末盧国」の位置により「伊都国」の場所が変わってきます。

前回は、「末盧」を「松浦」としてその他の国の位置を考えました。しかし、今回は、もう一度「末盧」の検討から始めましょう。

以下は魏志倭人伝を読む(13)の抜粋です。

私は「末盧」を「松浦」に比定することには若干懐疑的です。なぜなら、過去中国で一つの漢字に子音が二つ並ぶ事があったかといえばなかったのではないでしょうか。『末』を「matsu」と読むのにはやはり無理があるようです。ではどのように読めばよいかですが、一般的には「moro」「moru」と読むべきだと思います。そこで、このような地名が残っているかですが、「諸井」はありますがしっくりしません。「師岡」で「もろおか」と読めるのですが、現在地名としては残っていません。しかし、博多の天神あたりにこの苗字が結構残っているようです。壱岐と北九州との海路を考えれば先ほど私が壱岐へ行ったときと同様に博多のほうがすっきりします。

 

末盧を特定するときのもう一つの条件は、「伊都国」には良港があらねばならないことです。

二番目の条件は、弥生時代の遺跡(墳墓あるいは集落跡或いは大規模な稲田)が在る事でしょう。

この条件で、明日から再度場所探しをしましょう。

 

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魏志倭人伝を詠む(22)倭人とは?

2012/01/16 13:11

 

魏志倭人伝には、景初2年(238年)、正始元年(240年)、正始四年(243年)、正始6年(245年)、正始8年(247年)の記事が載っています。これ等の記事は、倭国と帯方郡との公式の交流です。そして、この正始7年ごろは邪馬台国連合と狗奴国が戦争状態に有った事が記されています。

 

また新羅の三国史記の新羅本紀には

173年5月:倭の女王卑弥呼、使を遣わし来聘す。

193年6月:倭人、大いに飢う。来たりて食を求むる者千余人なり。

208年四月:倭人、境を犯す。伊伐食利音を遣わし、兵を将いて之を拒ましむ。

232年四月:倭人、にわかに至りて金城を囲む。王、親ら出でて戦う。賊、潰走す。軽騎を遣わして之を追撃せしむ。殺獲するもの千余級なり。

 金城は新羅の王城。

233年5月:倭兵、東辺に寇す。

233年7月:伊喰于老、倭人と沙道に戦う。風に乗じて火を放ち、舟を焼く。賊、水に赴き死して尽く。

249年4月:倭人、舒弗邯于老を殺す。

 

ここで私が問題提議したいのは、魏志倭人伝に出て来る「倭国」は主に「北九州」にあった国国を指していると考えてもよいが、三国史記に出て来る「倭人」は173年の卑弥呼は別として、193年以後の記事の倭人は果たして、九州の倭人かどうかです。

例えば、193年6月の「倭人が飢えて、千人以上が食を求めて来た」などは、どう考えても、近くの島かもしくは陸続きであったとしか考えられない。 そしてその後の記事には4月が三度出てきます。この四月とは、太陽暦では5月であり、いつも5月から8月に活動している。暖かくなってから、九州から攻めてきたとも考えられますが、私は彼らの本拠地は「巨済島」か「対馬」にあったのではないかと考えています。彼らの本拠が近くにあったので頻繁に攻めることが出来たのではないでしょうか。

 

その一つの根拠が「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国」であり、この文章の主語は「倭人」ですので、「倭人の国の北岸」とは、以前にも書きましたが、どう考えても「狗邪韓国が倭人の国の北岸」であり、北岸であるためには「狗邪韓国が島でありその島の北岸」でなければなりません。そして、その島を基点として「対馬」に渡ったのならば、狗邪韓国の最大の候補は「巨済島」でないでしょうか。

 

また、別の根拠ですが、三国史記の「列伝」に倭国の人質として30年間倭国で暮らした新羅の王子「未斯欣」を助け出した「提上」の話があります。この話は「三国遺事」にも載っており、この王子が舟を盗んで逃げ帰るのですが、提上が半日それを隠していたので本国へ帰ることが出来たと書いています。そしてこの提上も舟に乗って倭国へ行っています。

また、提上の話として「新羅」が攻めてくると言う話があり、念のために海岸べりの監視を強化していたら本当に攻めてきたとか、提上が倭王に殺されたことを聞いた妻子が倭国が見える山に登って自殺したとか、が書いています。この話が事実であれば、この倭国は新羅と目と鼻の先にあることになります。

 

倭とは何かをこの「魏志倭人伝を読む」で何度か取り上げてきましたが、今まで書いたことを纏めますと、

倭とは

1.              いつの時代か定かではないが、紀元前に中国の西沙諸島当たりから北上してきた、海洋漁労民族である。彼らの一氏族はポリネシア、ミクロネシア、ニュージーにまで広がる。

2.              彼らのテリトリーは朝鮮南部の多島海(済州島、巨済島等を含む)から、対馬、壱岐、北九州沿岸であった。その本拠地は、巨済島・対馬・壱岐・及び北九州沿岸にあった。

3.              彼らはポリネシア・ニュージーのマリオ族と同じく、顔と身体に刺青をしていた。

4.              彼らの生業は、最初は潜水による漁労(アワビ、ナマコ、真珠等)であり、中国の歴代王朝に朝貢することにより代価を受け取って富を蓄えた。後には、この海域での制海権を握り、交易の民として力を蓄えていった。彼らは、九州からは海産物のほか、翡翠(青玉)、丹等を輸出し、朝鮮・中国(郡)からは、鉄・青銅器・織物等を輸入した。

5.              新羅が興ると、新羅と領土争いが頻繁に生じた。百済はどちらかといえば倭と協調もしくは時には倭に属した。

 

ここまでは、以前の時に書いたことがある内容です。

 

彼らにはもう一つ重要な役割がありました。朝鮮半島から九州方面に人を運ぶ事により巨利を得ていたのです。歴史書には朝鮮から多くの人が九州へ渡ってきたと書いていますが、彼らがどのように渡ってきたかは触れていません。

前出の新羅本紀にはBC50年には倭人がせめて来たとあり、14年には「倭人、兵船百余艘を遣わし、海辺の民戸を掠む。」とあり、古くから倭人がこの海域で活躍していた事が覗えます。

以前にも触れましたが、この時代、海図などなく、また日本がどこにあるか地図もありません。このような時代に、航海するには経験と巧みな操船と海域を熟知していなければ不可能です。ベトナム戦争が終わり多くのボートピープルが海を漂いました。彼らの乗った船は多くは漁船であったが、船長は船の経験者であり、ある程度海域の知識がありました。それでも、多くの船が行方不明になっています。ましてや、朝鮮から海を渡ってきた人々は、内陸の民であり、海を見たこともなければましてや船に乗ったこともない人が殆どだったことでしょう。そのような、どちらかといえば避難民が自力で海を渡ってくるなど不可能な事です。

 

ですから、彼らが海を渡ってこれたのは、倭人に財産を殆ど渡してでも倭人の船でたどり着いたと考えるのがまともな考えではないでしょうか。このような、移民の波が西暦前から百済の滅亡まで何度もあったと考えられます。

そして、百済が滅び、新羅が朝鮮を統一するに及んで、朝鮮南部を根城にしていた倭人の国は衰退もしくは撤退していったのでしょう。

 

ですから、卑弥呼の時代の九州は北九州の海辺は倭人の国であり、内陸部の農村地帯は恐らく、朝鮮からの渡来民族(何世紀にも亘って渡来した民族であり、各々が小国を形成していた)が占拠していた。彼らは、後から渡ってきた人々と抗争を繰り返し、弱者は吸収されて被支配者となるか、奥地へ本州へと逃げ延びて開拓したことでしょう。

 

そして、南九州には、朝鮮からの移民に、北九州の肥沃な土地を追われた西暦前数世紀に呉越の地から戦争難民として渡ってきた人々が住んでいました。彼らは狗奴国を作り邪馬台国連合と戦っていたのです。彼らこそが、日本列島に稲作をもたらした人々でした。

 

彼らがもたらした、その稲作技術は倭人の手で朝鮮に移入され、その後その稲作技術を持った人々が再び朝鮮から九州方面に渡ってきたのです。彼らが、邪馬台国以北にあった小国の民なのです。

 

ここからは、前出よりもっとお遊びですが、前漢が滅び新の時代の混乱期に呉の地から渡ってきた人々がいました。彼らは、九州ではなく、紀伊半島にたどり着きました。もしくは、一旦日向の地にたどり着いたが、また船出して紀伊半島にたどり着いた人々がいました。彼らは、河内から大和に入り力を付けていきましたとさ。

 

 

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魏志倭人伝を読む(21)その2

2012/01/10 12:04

 

前稿で書いた内容について私は何か大きな勘違いをしているのではないか。倭人伝に出て来る倭国に産する植物が当然「照葉樹林」の植物であるという前提で書いた。そして、卑弥呼の時代は現在より平均気温が3度ほど低く、北九州の玄界灘に面する海岸縁は温暖でなかったという前提に基づいて書いた。事実、現在も冬の玄界灘に面する地方は寒い。

 

そこで、前回の続きとして、私がリストアップした植物が現在どのように分布しているか調べてみる。基本として用いる資料は「ウイベキア」とします。

 

1.(タブノキ)

日本では東北地方九州沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っている

 

2.杼(スダジイ・ツブラジイ)

 スダジイ本州新潟県以南の日本各地、朝鮮半島にも分布する常緑の高木。20m以上の高木となり、タブノキとともに日本の常緑広葉樹林を代表する樹木であとされている。

ツブラジイは、ブナ科シイ属に属する常緑高木。関東地方南部以西から四国九州及び朝鮮半島南部に自生している。

 

3.豫樟(クスノキ)

世界的には、台湾中国ベトナムといった暖地に生息し、それらの地域から日本に進出した。(史前帰化植物)
日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。生息割合は、東海東南海地方、四国、九州の順に8%12%80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。とくに神社林ではしばしば大木が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある。

 

4.(クサボケ)

本州や四国日当たりの良い斜面などに分布。

 

5.(クヌギ)

日本では岩手県山形県以南の各地に広く分布する。低山地や平地照葉樹林に混成して生える。また、薪炭目的の伐採によって、この種などの落葉樹が優先する森林が成立する場合があり、往々にして里山と呼ぶのはこのような林であることが多い。

 

6.橿(ウバメガシ・アラカシ)

ウバメガシ:暖かい地方の海岸部から山の斜面にかけて多くみられる。特に海岸付近の乾燥した斜面群落を作るのがよく見かけられる。トベラヒメユズリハとともに、海岸林を構成する代表的な樹木である。

アラカシ中国台湾日本本州東北以南、四国九州に分布する。

 

7.乌号(ヤマグワ・ヤマハゼ・マユミ)

・ヤマグワはただ単にクワとも呼ばれ、カイコの餌として畑にも植栽されていた。日本全国に分布し、朝鮮中国からヒマラヤまで広く分布する。

・ヤマハゼ関東以西の本州四国九州に生育する落葉の小高木

・マユミ北海道から九州までの日本各地に分布する落葉の小高木。

8.枫香(フウ)

9.篠(シノチク・アワダケ)

 

10。簳(ヤダケ)

本州以西原産で四国九州にも分布する。

 

11.桃支(ホテイチク)

原産は長江流域 山野に分布する。開花周期は60年~120年。多般竹鹿児島ではコサンダケ(小桟竹虎山竹五三竹)と呼ばれる。

 

12.(ショウガ)

熱帯アジア原産。日本には2-3世紀ごろに中国より伝わり奈良時代には栽培が始まっていた。[

13.(タチバナ)

橘は中国では「かんきつ類」を指す。
タチバナは「日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。和歌山県、三重県
、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。」
果実は滑らかで、直径3センチメートルほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かないが、マーマレードなどの加工品にされることがある。

 

14.(サンショ)

日本北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部に分布する

 

15.蘘荷(ミョウガ)

東南アジア(温帯)が原産。日本の山野に自生しているものもあるが、人間が生活していたと考えられる場所以外では見られないことや、野生種がなく、5倍体(基本数x112n=5x=55)であることなどから、大陸から持ち込まれて栽培されてきたと考えられる。

 

以上内容を表にしたものが、下記の表です。

 

 

 

 

分布

 

 

 

 

 

中国

日本名

中国

朝鮮南部

本州

九州

生息地

備考

タブノキ

 

東北以南

 

 

スダジイ

新潟以南

 

 

 

ツブラジイ

関東以西

 

 

豫樟

クスノキ

 

西部

人里近く

史前帰化植物

クサボケ

 △

 

四国・

日当たりのよい斜面

 

クヌギ

 ○

 

山形以南

低山地、平地

 

橿

ウバメガシ

 

 

暖地

海岸部の山の斜面

 

 

アラカシ

 

東北以南

 

 

ヤマグワ

全国

落葉喬木

 

 

ヤマハゼ

 ○

 

関東以西

落葉潅木

 

 

マユミ

 

 

全国

落葉潅木

 

フウ

 

X

X

 

 

ヤダケ

 ○

 

本州以西

 

 

桃支

ホテイチ

 

 

 

 

ショウガ

 

栽培?

東南アジア原産

タチバナ

 △

 

和歌山。三重

海岸に近い山地

日本固有種

サンショ

全国

 

 

蘘荷

ミョウガ

 ○

 

 

自生地あり

人里

東南アジア原産

 

現在より平均気温が3度低いと仮定すると、全ての植物が観察できる自然林(3世紀の)はやはり九州であり、玄界灘に面している山地ではなく、有明海に面している山地がぴったりするように思います。

 

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魏志倭人伝を読む(21)倭国の植物から邪馬台国を比定できるか?

2012/01/09 14:23

 

先に「魏志倭人伝を読む⑦」http://lookchina.iza.ne.jp/blog/entry/2504766/allcmt/#C2351470で倭国の植物について簡単に注釈しましたが、今回は、再度詳しく調べてみようと思います。前回も述べましたが、帯方郡から来た者に日本の産物を調査する役目を担った専門家の報告書が下敷きになっているものと思われます。中国では「本草学」が古くから発達し、本草学に明るい学者が多くいたようです。現在でも古い本草学の書物が多く残っています。そして、基本的に植物名は漢字を創出して連綿と現在まで受け継がれてきました。しかし、文字は残ったがその植物が何か判らなくなったものもあります。

一方では、魏の本草学者はこの時代魏の領土が長江以北であり、長江より南の植物を見ることが出来なかったであろうことも考慮しなければなりません。九州と同様の植生はこの時代おそらく江蘇の長江北岸と安徽・湖北の植生であったろうと思われ、倭国まではるばる来た本草学者が果たしてこの地方の植物に詳しかったかも考慮しなければなりません。多分、同定できない植物は写生して持ち帰りもしくは標本を持ち帰り中国本土で同定したものと思われます。今回は、彼らがなぜそこまで調査する必要があったのかについてはあえてふれません。

 

其木有柟、杼、豫樟、楺枥、投橿、乌号、枫香,其竹簳、桃支。有姜、橘、椒、蘘荷,不知以为滋味。

と記載されているのですが、この植物を一つずつ検討していきます。
:楠の字と同じ意味(くすのきの仲間)、中国ではクスノキと区別されており日本には自生していない。従って、 よく似た植物(しかし属は違う、科も違う)の「たぶのき」が妥当か?
:  どんぐりであり、椎(スダジイ・ツブラジイ)でないか?
豫樟:「くすのき」が妥当。は現在の「河南省」の古称。くすのきのこと。従って、河南に植生する「くすのき」と解してもよいのでは。

 (ぼけ、あるいは、くさぼけ) 現在この漢字に相当する植物は中国でも不明。
( (櫟)と古くは同じ樹木。一般にカシワの仲間を指すが、クヌギが妥当。
(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか) 
橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする) 古书上说的一种树,木材坚韧,可做车轮:其木则柽松楔稷,槾柏杻橿。とあり、やはり「かし」の仲間(ウバメガシ・アラカシ)のほうが中国にも自生しており妥当。照葉樹林を構成する。


乌号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする) 古代的一种良弓名。史载:乌号,柘桑,其材坚劲,乌栖其上,将飞,枝劲复起,号呼其上。伐取其材为弓,因曰乌号’”とあり、弓に用いられた。従って、古来日本で用いられら弓の材料として「はぜのき」「まゆみ」も候補に挙げてよい。


楓香 いわゆる「フウ」の事であり、日本には自生していない。大陸では独特の香りのある樹脂を「楓香脂」として薬用にする分布于我国秦岭及淮河以南各省,北起河南、山东,东至台湾,西至四川、云南及西藏,南至广东;亦见于越南北部,老挝及朝鲜南部。本草学者が「フウ」と「カエデ類」を間違えるはずがなく、朝鮮南部に自生する「フウ」を同時に記載したと考えるのが妥当。

 篠,小竹也。——《字林》とある。「しのちく・あわだけ」等が妥当。


 1.小竹。可作杆。とあり「ヤダケ


桃支:(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする) 亦作桃支竹竹之一种。《书·顾命》敷重篾席 传:篾,桃枝竹。 戴凯之 竹谱》:余所见之桃枝竹,节短者不兼寸,长者或逾尺, 豫章 徧有之。 段成式 《酉阳杂俎·广动植序》:桃支竹以四寸为一节。说郛》卷五十引 范成大 《桂海虞衡志》:桃枝竹多生石上,叶如小棕榈,人以大者为杖。とあり「ほていちく」が妥当。
(しょうが)  姜の古字
橘:(たちばな。または、こみかん)
(さんしょう)
蘘荷みょうが

 

これらの植物に関しては、魏志倭人伝 謎解きの旅」http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/というHPで詳しく考証された方が居られます。この方の説と私が立てた仮説に大差なく、いずれにしても照葉樹林(広葉常緑樹林)の構成植物であろうことには一致しています。私は植物の植生には疎いが、上記の植物が全て同じ自然林に生育いているとは考えられない。この植物を観察した者は恐らく何箇所かの自然林、例えば海辺の自然林・山すそ・中腹等を観察したものと思われます。

 

ではこれ等の植物の自然生育地はどこかですが、「魏志倭人伝を読む⑦」でも言及しましたが、中国の歴史書を分析すると「西暦初め頃より中国は寒冷期に入り600年ごろまで続いた。その間の平均気温は現在より3度低かったと考えられている。」であり、後漢が滅ぶ原因になった黄巾の乱も飢饉が引き金になった直接原因もこの寒冷化であったと思われます。

 

中国の寒冷化と日本の気候変化は当然直結しており、西暦240年前後は寒冷期の真っ只中です。既に200年以上寒冷期が続けば当然、広葉常緑樹林(照葉樹林)も後退し、恐らく本州では瀬戸内まで、後は四国・九州まで下がっていたのではないかと思われます。そして、海水の水位も下がり、海岸線は今より海よりにあったのではないでしょうか?北九州の海辺は比較的寒いため、このような植物が見られたのは、北九州でも内陸部だったと思われます。

 

魏志倭人伝によればこの本草学者も「末盧・伊都・奴・不呼国」を実地に歩いたと推定できますが、先ほど述べたようにこれ等の植物は海岸線ではなく内陸部にあることを考慮しますと、末盧国と伊都国は海岸べりにあったとしても、奴国と不呼国は絶対に海岸べりではなく内陸部にあったと言い切れます。そして、邪馬台国も当然九州の中部当たり、即ち「佐賀平野・有明湾に面する地方から少し東の内陸部」にあったと推定できます。

もう一つの根拠は「倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣なり。

 

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魏志倭人伝を読む(20)一大率とはなにか

2012/01/06 14:41

 

魏志倭人伝に出て来る「一大率」に関しては、現在殆どの学者が「邪馬台国の卑弥呼が設置」したものであると考えているらしい。邪馬台が九州説であろうと大和説であろうとどちらも説明がつくらしい。

 

しかし、一方では松本清張を代表とする「帯方郡が派遣した役人若しくは役所」との考えがあり、この根拠としているのが、倭人伝中の一大率に関する文章である。この文章を再度掲載します。

女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都帯方郡諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。

 

松本清張の考えは、「女王が一大率を伊都国に常駐させていたのなら、なぜ諸国がこれを恐れるのか」でした。そして一大率が女王が派遣したものであれば、「女王国の船の臨検は出来ても、帯方郡の船まで臨検できる筈がない」、従って、この一大率なるものは明らかに帯方郡が倭国を間接支配するために常駐させた役人もしくは役所であるという。

しかし、帯方郡の役人もしくは役所名であればこの漢字は当て字ではないはずです。当て字でないのなら、中国のこの時代にこのような用例が当然ある筈ですが、私がネットを駆使して調べた限りでは倭人伝以外には「一大率」も「大率」も見つかりませんでした。従って、この説は説得力があるものの傍証がないために主流とはなりえません。

 

そして、最近ある人は、「一大国」と「一大率」の「一大」は同じであり、一大率とは一大国が派遣した軍隊であるという。しかし、彼の考えは単に思いつきに過ぎず、一大国は朝鮮に近く武器も強力であったために進駐できたとしか言っていません。なぜ進駐する必要があったのかは述べていません。

 

「一大率」を考えるためには、まずこの時代の中国の「刺史」がどのようなものであったを理解しなければなりません。刺史は前漢時代に全国に13州が設置されると同時に設置され、現地の官僚を監察するための「監察官」でした。その後、刺史の性格と名称の変遷があったが、魏の時代になり名称は「刺史」に戻ったが、刺史は将軍位を持って兵権の行使も行った。

 

したがって、一大率とは、監察官であり且つ兵権も持っていたと考えられます。単なる役人ではなかったわけです。ですから「諸国を検察し、諸国はこれを畏憚し、伊都国を治め、港での全ての船の臨検を行っていた」のです。そして常駐していた郡使も監察していました。

 

では誰がどのようにこの「一大率」を伊都国に派遣したのでしょう。これを理解するのは少し厄介ですが、一つのヒントがあります。「倭」という国や人や種が倭人伝には出てきますが、私の理解は、帯方郡の役人は「倭」を良く理解していなかった。彼らは、日本列島に住む人の殆どを「倭」だと理解していたのです。確かに、対馬や壱岐・北九州の沿岸部には「倭国」(倭の集落)があり朝鮮半島の南岸にも倭の集団がいました。しかし、北九州の農村部や中国地方・近畿地方の稲作生産者が「倭」であったかというと私の考えはNOです。邪馬台国連合には「倭の国」も確かに属していた事でしょう。そして、帯方郡の役人が接触していた伊都国を始め交易の民や漁民が「倭」であったために、誤解したものと考えられます。

もう一つ重要な事は、「対馬」や「壱岐」が「邪馬台国連合」に属していなかったにも関わらず、交易船がこれ等の島に船泊まりできたことです。このことも、この海域で操船していたのが全て「倭」であり、「倭」がこの海域の制海権を有していたことを説明しています。従って、帯方郡の使節もきっと「倭」の船か「倭」が操船する船で、安全に「末盧国」にたどり着いたのではないでしょうか。

 

もう一つ「一大率」を読み解くための鍵は「率」です。この漢字は、「一大率」が邪馬台国の役人でなく、郡が派遣もしくは名付けたのであれば当て字ではありません。そこで、この時代の用例を調べると

率・・shuai と発音する場合

3.榜样;;楷模 [model;example]
刺史,古之方伯,上所委任,一州表也。——班固《汉书·何武传》

4.  又如:(作为下属表);(示范,作为榜样);(做众人的榜样);(自身作出榜样);(为时人的表);(为众人表);(以自身的表行为对他人进行教导)

5.  领导者,统帅,首领 [leader]
不能,则兵弱。——《荀子·富国》
师以来,惟敌是求。——《左传·宣公十二年》
不亲,士卒不使。——《春秋繁露·五行相胜》
王之将有如子路者乎?——《史记·孔子世家》
贪鄙在不在下,教训在政不在民也。——《盐铁论·疾贪》

6.  部队 [army]
[葛洪] []冰别,破之。—— 房玄龄《晋书》

 

とあり、model, leader, army と、ぴったりの用例があるではないですか。

そして、率(shuai)と同じ発音の漢字に 「帥」があります。この字は「元帥」「統帥」と言うように、「軍の最高指揮者」を指しています。

 

従って、「一大率」とは「一大国」の「軍隊」であり「軍の最高指揮者」であるという説もうなずけます。

しかし、なぜ「一大国」の軍隊が伊都国に駐在していたかも説明しなければなりません。

一つの考えは「一大国」が、先ほど述べた「倭」人の中心であり、伊都国も「倭」人の国であったから。(この意味は、伊都国は邪馬台国連合にも属していたが、基本は「倭」人集団の一国であった。)制海権を有している「倭」が九州の「倭」種でない国が朝鮮・郡に朝貢もしくは交易する場合、必ず「一大率」の臨検を受けなければならず、そのために「一大率」は軍隊でもあったのです。そして当然「一大率」は現在の税関と同じ役割を果たし「税」を徴収していたものと考えてもおかしくありません。

 

もう一つの考えは、郡が「一大国」の軍即ち「一大率」を同族である伊都国に駐在させ、邪馬台国連合を監視させていた。その理由は呉との戦がまだ終わっておらず、呉が邪馬台国連合と接触するのを魏が嫌ったためであり、「一大率」にその見返りとして、船の貨物から「税」を徴収させていた。

 

余談ですが、後に「大宰府」と呼ばれた役所は、「一大率」が発展したものだという説がありますが、私に言わせればこれは全くの眉唾物としかいいようがありません。

多分、この「大宰府」に「大」の字があるからそのように想像したのでしょうけれど、では「宰」の字をどのように解釈したのでしょう。この字は現在の日本でも中国でも意味は同じです。

1.  杀牲畜:~杀。屠~。~牲节(亦称“古尔邦节”、“牺牲节”)。

2.  借指商贩用狡诈的手段使顾客在经济上受到损害(有的地区称“斩”)。

3.  古代官名:~相(xiàng )。~辅。太~。~官。

4.  主管、主持:主~。~制。

 

特に、3の古代官名の「太宰」は中国の官名であり、ある説では「唐」がこの地に進駐し設置したのが「大宰府」であったの方が説得力がありそうですね。

 

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魏志倭人伝を読む(19)そのⅡ.

2011/12/27 11:16

 

 

 先ほど述べたように、以上中国の画紋帯神獣鏡の図録から見て取れるのは、中国の神獣鏡上の神と獣の浮き彫りは、全て鏡背の底面は突角を形成しており、これは中国の神獣鏡は母模の製作工程において、まず紋飾のない泥の鏡白地で枠をつくり、神と獣とその他紋飾は全て別に彫塑したのち、各自の位置に置いた無紋の泥鏡下地の上に置いたことを説明している。このような製模の方法は、往々にして鏡背の底面と浮き彫りの結合部分は突角を形成する。その後再び陰模・陽模及び翻模を造る。全ての日本の三角縁神獣鏡の図録中に見出せるのは、鏡背の高くなった浮き彫り部位は、その浮彫りと鏡背の底面の結合部位がみな比較的円滑であり、明らかな結合部位がない。これは一つの現象を説明している。この鏡模の制作方法は、中国の神獣鏡の制作方法と違う。三角縁神獣鏡の制作方法は、まず無紋飾の陰模上に人形或いは獣形のようなものを押し付けて窪みを作り、更に窪みに比較的細かい工具で人の眉や目或いは裳裾を圧して作り出す。例えば図17の神獣鏡の中に見て取れるのは、その頭部の下面の三角形鋸歯門及びこれ連らなっている方座は、明らかに陰模上に直接圧して出来ている。顔の眉毛及び目の彫法ももな陰模上に圧して作った人の顔に似た窪みであり、その後再びその窪みに人の眉毛と目の線を圧している。この模の制作方法は正規の彫塑方法出ないことより、日本の三角縁神獣鏡の背紋の神と獣は、中国の伝統文化中の神と獣の形態とは別であり、中国の各種神獣鏡の紋飾中にはこれと同様の紋飾を探し出すのは非常に困難である。これから推論するに、この模を製作した工匠は明らかに中国の鏡模の彫塑技法に疎く、この製模の工匠は中国の銅鏡の伝統製模工芸に熟知しておらず、その製模方法は明らかに中国の銅鏡の製模方法と程遠い差がある。

 

以上は日本三角縁神獣鏡の背紋の文化属性及び製模問題を討論したが、以後は再度日本三角縁神獣鏡と中国呉鏡鋳造方面に関して討論する。

筆者は未だ日本の三角縁神獣鏡を見たことが無いが、兵庫県の神埼勝先生に贈っていただいた大量の三角縁神獣鏡の彩色図録及び考古資料のより、やっとこの限りある研究を行うことができた。図録より多くの三角縁神獣鏡の背面紋飾が見とれ、この鏡の大きさは全て20cm以上であり、この鏡の紐穴も全て大紐穴に属す。この種のいくらかの形状によって判断すれば、三角縁神獣鏡は全部はっきりとした凸面鏡といえる。

ご存知のように、中国古代の銅鏡には、すこしは凸状態の銅鏡があるが、筆者はこの問題を専門に研究したのちに発見したのは、鏡面に凸の起こる原因は、鏡の切断面のいくばくかの形状及び紐穴の大小が直接関係があった。特に一部の大きい紐穴を有した銅鏡は、その鏡面の凸が更にはっきりしており、これは銅鏡の鋳製工程において必然であり、工匠が鋳製過程にやむなく行ったものであり、決して工匠の主観的な意思によるものではない。これは所謂大紐穴鏡がその紐穴の直径が2.5cm以上の半円若しくは平円であり、鏡面の最も薄いところが2cm以下の鏡である。鏡面の凸は明らかにはっきりしている鏡で、この時代の多くは後漢以後隋までである。戦国から前漢始めの銅鏡の紐穴は大きくなく、鏡の縁も高くなく、この鏡面の基本は全て比較的平直であり、明らかに凸のある鏡面は基本的に見られない。隋代以降、紐穴は暫時縮小し、鏡縁も逐次低くなる。それゆえ、隋峡の多くは中間の平周で少し低く実際の効果がある。凸面鏡は照らして使用するとき、人の形象の変形は深刻であり、隋末から唐初以後、古人は凸面鏡を放棄し、工匠は鏡面の厚みを増した。鏡体の殆どの形状を改変したので、漢末から三国南北朝の凸で無ければならない技術局面はやっと終わった。もし古人が大紐穴を備えた銅鏡を平面鏡で製作したなら、多分上手く作れなかったであろうし、鋳造上の欠陥のある製品が出来て人に用いられなかったであろうし今日まで残らなかったであろう。今日までに出土した古代の銅鏡に、未だに大きな紐穴を具備した平面鏡も見られない。日本の三角縁神獣鏡の鋳造時代は、まさに中国の漢末から三国南北朝の時期であり、正に中国銅鏡の鏡面が凸面の最も最盛期でもある。仮に中国の工匠が日本に至りその地で鋳造したのなら、図録中の三角縁神獣鏡の幾つかの形状から見れば、もし判断を誤らなければ、この鏡は明らかに凸面であることは必然として疑いもない。古人がなぜ凸鏡を製作したかの問題に関して、筆者は《試論古代銅鏡鏡面凸起の成因及びその関連問題》という一文に詳述したが、ここでは重複させない。

 

 

 

《魏书乌丸鲜卑东夷传第三十》载:景初二年六月,倭女王遣大夫难升米等诣郡,求诣天子朝献,太守刘夏遣吏将送诣京都。其年十二月,诏书报倭女王曰:……又特赐汝绀地句文锦三匹、、白绢五十匹、金八两、五尺刀二口、铜镜百枚、真珠、铅丹各五十斤,皆装封付难升米、牛利还到录受【4】。しかし日本三角縁神獣鏡の銘の中には“陳是”作の景初三年と正始元年の鏡がある。統計によれば、32面の三角縁神獣鏡に陳氏(陳是)の銘がある。中国の古代の礼儀では、魏朝の天子の贈答は国礼となり、民間が造った鏡を答礼品にすることは絶対にありえない、そして官製の鏡を答礼品として用いたはずです。三角縁神獣鏡の銘に曰く「吾作竟自有纪,辟去不羊宜古市」、・・・【5】;羊は祥の仮借で、古は賈であり、宜古(賈)市はこの数枚の銅鏡が不祥を取り除くことが出来る事を現しており、適宜市場で売買したことを説明しておる。この数枚の銅鏡を鋳造した匠は、市場で売買したのであって、決して国家の礼品ではない。三角縁神獣鏡の背面の浮き彫りの水準も中国南部北方製造の銅鏡の背紋の技術水準とかけ離れている。中国皇室の答礼の習慣と大きく合致しない。陳氏が作った銅鏡は鑑定によれば日本では平縁の神獣鏡が6面発見されており、景初四年銘の鏡が2面で、合計40面の陳氏製造の鏡が見つかっている。【6】。これは《三国志》中の魏文帝が倭女王に贈った銅鏡100枚の記載と、日本で出土した三角縁神獣鏡が無関係である事を説明している。

 

 筆者は一部資料で見つけたのは、日本伝統の鋳鏡合金はCU-Sn-Pbの合金であるが、錫の含有量は10%前後。日本の京都で現在も銅鏡を造っている山本鳳龍氏の銅鏡の錫の含有量も10%前後である。中国古代の銅鏡は戦国早期から唐代後期にかけて錫の含有量はずうっと18-27%の間を保っており、大部分の銅鏡の錫の含有量は23-25%の間である。日本で刊行された化学成分表を見ると、三角縁神獣鏡の錫の含有量は23-27%の間であり、樋口隆康による(三角縁神獣鏡総鑑)によれば24枚の鏡の平均錫含有量は24-25%であり、これは中国戦国から唐代後期の高錫青銅鏡の錫含有量と完全に一致し、この種の錫含有量の合金は正に中国の工匠が用いた合金で鏡を鋳造している。

 

(図19)

 

(図20)【7

 ある学者の考えは日本の三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡と画像鏡の組み合わせであり、この種の三角縁神獣鏡は三国時代の東呉の工匠が日本へ行った後、その地で鋳造したものであると推論している。この根拠はこれまでに、中国及び朝鮮半島でも日本で出土したこの種の縁が三角形の神獣鏡が一枚も見つかっていない【8】。実際、この主な根拠は日本の三角縁神獣鏡中の“張是”及び“陳是”等の中国の工匠の氏姓の銘鏡である。

 

(図21)

 

(図22)【9

 

(図23)

 

(図24)【10】

 中国の銅鏡の内銘文が記載されている銅鏡は呉の鏡が多く、中国北方の銅鏡の中の銘文は官方銘を除けばその他の銅鏡工匠の氏姓は非常に少ない。後漢末三国南北朝の鏡にもただ長江流域の呉鏡の銘文にのみ氏姓が非常に多い。

 

(図25)

 

(図26)【11】

卾州市で出土した銅鏡の銘文には20個近い匠の氏姓があり、その内張姓と陳姓は少なくなく、中国で張姓は最も多く、その子孫は全国各地に散らばっている。陳姓も数番目でありその子孫は全国各地に居る。それゆえ、我々は日本の三角縁神獣鏡中の張姓及び陳姓の匠は、卾州出土の神獣鏡中の張および陳姓に関連があるかどうかは判断できない。しかし、日本の三角縁神獣鏡の鋳造習慣の中から、“同範鏡”といわれる、図の中から見出せる二枚の銅鏡の鏡紐孔の方向は一致しない。図21と図22は別の二枚の三角縁神獣鏡で、これも同範鏡といわれているが、この二枚の鏡の紐孔の方向も一致しない。このようなサンプルは日本の三角縁神獣鏡の“同範鏡”には比較的多い。図23と24は、1970年と1975年に卾州で出土した二枚の黄初二年銘の半円方枚神獣鏡で、そのサイズと紋飾は全て一致し、“同範鏡”といわれている。図から二枚の鏡の紐孔は不一致である。この現象の原因は工匠が鏡模の紐穴の両辺に芯頭を設置しないからであり、泥模を作った後、泥模の紐穴の両辺には芯座がない。鏡模の上にもし芯頭があればこのようにこの模で作った泥範の多少に関わらず、鋳造した銅鏡の紐孔の方向は全て一致する。もし鏡模上に芯頭を作っていなければ、それから作った泥範には芯座があるわけがない。芯座のない情況で泥芯を付ければ、範中の紐穴は360度の半円坑状を呈し、泥芯を付ける位置は任意の方向になる。そして紐孔の方向が容易に変化する。

 

中国北方製造の鏡は、多くが紐穴の両辺に芯頭を付け、例えば図25から26の鏡範は図1図2と同一の鋳銅遺跡から出土した。図から見て取れる事は、紐穴の両端に全て方形の溝があり、これは芯座である。芯座の方向の制限を受けることにより、泥範中に泥芯を取り付けるとき、紐孔の方向は変化し得ない。

 

(図27)13

 

 

中国の北方銅鏡は、殆どの紐孔が正しい向きをしている。例えば北方で出土した数量が非常に多い四神博局鏡すなわち俗に言う四神規矩鏡の背紋は往々にして四方に四神が配置されており、その中の十二支銘も全て四神の位置と対峙している。例えば卯は青龍と対峙し、酉は白虎と、午は朱雀と、子は玄武と対峙している。それゆえ、四神鏡が非常に多くの種類があろうと、サイズに大小があろうと、四神鏡の紐孔は全て朱雀と玄武の方向にある。午は南であり、子は北である。四神鏡の紐孔は全て端整に南北が形成する子午線の方向を向いている。これはこの鏡模の紐穴両辺に芯頭が突いており、泥範の芯座上に泥芯を取り付けるとき、捻じ曲げようとしても捻じ曲げることが出来ない。このような鏡模は、鋳造した同模鏡すなわち所謂“同範鏡”の多少に関わらず、この紐孔は全て一つの方向である。そして中国長江流域の銅鏡には、紐孔が往々にしてバラバラであり、その内神獣鏡は特にひどい。例えばある紐孔は神に対応し、あるものは獣に対峙し、或いはどちらにも対峙していない。これは江南の鋳鏡工匠の多くが鏡模の紐穴両辺に芯頭を付けていないからです。日本の三角縁神獣鏡の紐孔方向の多くはバラバラであり、その鋳鏡交渉の製模の習慣が、中国の呉地方の鋳鏡工匠と関係があるからに他ならない。

 

 所謂中国の呉鏡の産地は、言うまでもなく浙江省の紹興、江蘇の呉県と湖北の卾州です。中国の呉鏡中で、鏡縁が日本の三角縁神獣鏡のような鏡縁の銅鏡はといえば、例えば龍虎鏡や、盤龍鏡、そして少数の画像鏡等のような対応する各種神獣鏡は全て平縁です。卾州の鏡で、断面が三角形を呈している鏡縁の銅鏡は、その鏡のサイズは全て大きくない。例えば卾州で出土した龍虎鏡、飛風鏡、画像鏡等、その中で最大の神人鳥獣画像鏡でもその直径は20.2cmで、その他は全て16cmから8cmの小鏡である。筆者の目から見れば、断面が三角形を呈している鏡縁の銅鏡は決して平縁の銅鏡に比べて美しくない。古人はなぜ一部銅鏡の縁の断面が三角形を呈しているものを製作したのか。長期の古銅鏡の復原と複製を行った後に発見したのは、断面が三角形を呈する銅鏡に、その三角形縁を設置した目的は、全てこの銅鏡の背面の中心に非常に大きな紐穴を確保し鋳型に流し込んだ後の収縮期に鋳造の欠陥が現れるのを避けるためである。およそ三角縁鏡は、その背面中心は必ず非常に大きな半円の紐穴部分があり、その鏡縁は必ず三角形の鏡縁を作る必要がある。一般に直径10cm前後の銅鏡は、背中心の紐穴部分の半円形を除けば、紐穴部分と縁の間には浮彫り紋飾は決してなく、ただし腰の線彫り紋飾があるにすぎない。これら線彫りは鋳型への注入後の紐穴部分の収縮を補う作用をしていないが、ただ非常に厚い鏡縁は収縮を補う作用をしている。

 

 各種平縁の神獣鏡では、各々の種類の断面の形状の設置は全て違う。例えば直行銘重列神獣鏡および分段式重列神獣鏡、この二種の鏡背の中心はやはり大きな紐穴部分であるが、一つとして半円もしくは全て平円の鈕(紐穴部分・・ボタン・・これが原文)はない。この種の形状の鈕は、鏡背に高く彫られた浮彫りが収縮を補う作用をしており、それゆえこの二種の形状の鏡は三角縁を作る必要がない。半円方枚神獣鏡と画紋帯神獣鏡、この二種の鏡は半円鈕があり平円鈕もあり、半円鈕はその直径が全て相対的に小さく、平円鈕は、例えば図23・24と同じく、その鈕の直径は相対的に大きいが高さは非常に低い。その内画紋帯神獣鏡の鈕の多くは直径が比較的小さい半円形で、半円方枚神獣鏡には平円の鈕が多い。なぜなら半円鈕は高く、その直径は必ず小さい。平円鈕は相対的に低く、その直径は相対的に少し大きい。これ等のルールを形成している要因はただ一つで、鏡体がどのような形状であろうが、鏡全体が銅液を木型に流し込んだ後の収縮の均衡を保障する必要がある。半円方枚神獣鏡と画紋帯神獣鏡の鏡背の浮彫りは既に鏡鈕の収縮を補う量を満たしており、それに加えて鏡自体の直径は大きくない。それゆえ。この二種の鏡は鏡縁を高くする必要がなく、平鏡縁は銅液の収縮の均衡を保つ事が出来る。

 

 鏡模上で三角形の縁を作るとき、翻製された泥範から模を取り除くとき、その他の形状の縁は比較的巧く剥がれるが、三角縁神獣鏡は模の上で範を作るときに同様にこれ等の問題が存在する。資料より得られたのは、三角縁神獣鏡の直径は大きくて21cmから25cm前後で、大鏡であり、この鏡には全て非常に大きな半円鈕がある。鏡背の浮彫りの設置は、浮彫りが収縮凝固期の補給を解決するためである。三角縁神獣鏡の鋳状態が未完成の鏡縁の高度は、現在見られる三角縁の厚みより高く、この高さは鏡面の凸部分の最高である。古代の鋳鏡の模具は一般にまず鏡背の紋飾の陶模を作り、鏡面は平板に属す。元々平板陶模を専門に作る必要がなく、更に一つの凸面の鏡面模を作る必要はない。一つの鏡鋳造工房は数量の多少大小品種の違いと鋳造するに関係なく。ただ一つの大きな平面模を作り出すことが必要であり、各種大小鏡を製作する平面範は何度も使用する。直径が21cm以上で大きな半円鈕がある銅鏡は、その模の上の鏡縁の厚みは少なくとも1.5cmを超える。でなければ鋳型に流し込んだ後浮彫りと大半円鈕に収縮期内に欠陥が現れないと保障できない【12】。もし鏡縁が製作時に少し内側に傾けば、角度が模面と垂直に接近し容易に脱範せず、鏡縁は三角形に出来た後、この鏡の縁の角度と模面は殆ど45度になれば、容易に脱範できる。

 

 龍虎鏡の断面と良く似た形状の銅鏡は、中国南方に多く多く出土する。特に卾州地方に比較的多く出土する。龍虎鏡とその断面図の形状が似た銅鏡は、大小の別なく皆比較的高い半円鈕で、その鏡縁は多くは三角形の鏡縁である。例えば卾州から出土した一枚の浮彫式鳥獣紋帯龍虎鏡(図25)は、この鏡の主紋は浮彫りの龍虎で、その外に線彫りの鳥獣が一周している。その間には七個の柿の蔕状がある。銘文はその外に線紋として一周しており、辺紋は二週の鋸歯紋とその中間に波浪紋があり、その直径は20.5cmで、1970年8月に卾州近郊で出土した。この鏡の鏡背紋飾と断面の形状は、鏡自体の直径と鏡鈕の比例は日本の三角縁波紋帯龍鏡とよく似ている。その他一部直径が比較的小さい龍虎鏡、飛鳳鏡などは、その鏡鈕と鏡体の比例はやはり前者と同等。以上この種の銅鏡は、完全に鏡縁が三角形縁であり少し傾斜した高縁であるとはいえないはずだが、それらの銅鏡は全て三角形縁であり、これは一種の地域性或いは時代性の造形様式、或いは地域的な鋳造習慣と言えなくもない。

 

 卾州市博物館所蔵の龍虎鏡の銘文に、李氏作竟(李さんの作った鏡)、三羊作竟および蓋作竟などがあり、一箇所の工房ではないが、それらの龍虎鏡は全て三角形の鏡縁である。どの工匠が鏡を作ろうと、鏡鈕の体積は大きく、この鏡縁は必ず高く、厚つい。でなければ不良品を作り出してしまう。しかし必ずしも三角縁作らなければならないとはいえない。もし一つの工房が大鈕で高縁で三角縁の鏡を大量に作る必要があるなら、その製範の速度を大いに高めねばならない。日本の三角縁神獣鏡は全て非常に大きな半円鈕があり、浮彫りは一定の高さが必要のほか、鏡縁も必ず高く、厚くなければ、同様に不良品を作り出すことになる。大半円鈕には高い縁が必要だが、鏡縁の断面形状は必ずしも三角縁が必要ではない。例えば浙江で出土した多くの画像鏡は、非常に大きいし、その鏡鈕は全て半円鈕で、鏡ボタンの直径も相当に大きいが、鏡縁が三角形を呈しているのは非常に少ない。そして卾州で僅かに出土した四枚の画像鏡もすべて大半円鈕だが、その鏡縁は全部三角形縁である。これは当地と当時の鋳造技術及び鋳製加工習慣と関係があると考えられる。

 

 上述のように、筆者の考えは、王仲殊先生の考えと同じく、“日本で大量に出土した三角縁神獣鏡は、中国の呉地の工匠が日本で鋳造したもの”であるが、その元の母模の彫塑者は、当地の日本人が中国の呉鏡を模倣して彫塑した。この母模の彫塑が完成後、中国の工匠によって陰模を複製後、修正を加え、銘を刻んだ陰模を作り、その後鏡を鋳造した。

 

 

 

 

 

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魏志倭人伝を読む(19)中国銅鏡と三角縁神獣鏡の関係

2011/12/27 10:59

 

三角縁神獣鏡は、魏で製作されたものでも、呉で製作されたものでもなく、「呉の匠が日本で製作したものである」という。以下はネットで拾った中国人の論文ですが、専門的過ぎて私には翻訳不可能。そこで、一部だけ日本語に訳したが後はギブアップ。

 

呉の匠が日本で作ったものであるとするならば、呉は南九州の狗奴国以外に近畿あたりの勢力と接触していたことになる。なぜなら、三角縁神獣鏡は主に中四国から名古屋当たりまでの地で多く出土している。そして、この地域にいた有力勢力は決して邪馬台国連合ではない。魏と邪馬台国連合は親密な関係にあったことが裏づけとなる。しかし、呉の匠はなぜ「魏の年号」をこの鏡に銘したのかの謎が残る。この謎解きにこめあほ~さんはチャレンジすべきですよ。

 

 試論 中国銅鏡と日本の三角縁神獣鏡の関係

                 作者:董亜巍(湖北省卾州市博物館)1999

 

摘要;中国で出土した銅鏡の研究を通じて、中国の龍虎鏡・画像鏡及び神獣鏡の製作者と日本の三角縁神獣鏡の製作者は鋳造技術上で歴史的に深い関係がある。しかし中国の呉鏡の鏡背文様の彫塑技術と日本の三角縁神獣鏡の鏡背の彫塑技術の間の差異は非常に大きい。認めることが出来る事は、日本の三角縁神獣鏡は青銅範鋳技術上において、中国の銅鏡の青銅範鋳技術と直接関係があるが、その鏡背面の紋飾を彫る技術は、中国の呉鏡の背紋の彫塑者との間にははっきりとした直接関係はない。

 

中国で出土した古代青銅鏡の数量は甚だ多く世界で最も多い。世界各国の博物館と国内の博物館が所蔵している銅鏡の総計は十万以上に上る。日本の弥生時代と古墳時代の遺物中で、出土したのも大量の古代の青銅鏡であり、その内多くは中国鏡と認めることができ日本の学者は“泊載鏡”と呼んでいる。日本で中国の漢・三国から六朝に相当する古墳より出土した三角縁神獣鏡は果たして“泊載鏡”なのか、或いは複製鏡なのか或いは中国の工匠が日本に行き鋳造したものなのか。これは長年日本の考古学者の中で熱い話題に成っている。これまで、この鏡は中国国内での出土例は一件もない。三角縁神獣鏡は日本では大量に出土し、現在約500件に上る。この鏡の製作者の認定に関し、日中の学者の間で大量の研究と考証が行われている。奈良橿原考古学研究所の樋口隆康氏を代表とする日本の多くの学者は、(三国志)の関係記載と、この鏡に含まれる鉛の同位元素比値法での分析を通じて、この鏡はこの鏡は三国時代に中国北方の工匠が中国本土で鋳造後、日本に運ばれたものだと考えている。中国社会科学院考古研究所の王仲殊氏は日本の三角縁神獣鏡の類型研究及び、中国の呉鏡の中の各種神獣鏡の研究と比較を通じて、日本の三角縁神獣鏡は三国時期の孫呉の工匠が日本へ赴き鋳造したものであると考えている。

 

(図1)

 

(図2)【1】

 

1.研究を通じて上述と異なる二つの観点があるので、以下に上述する。

 

 中国古代の鏡の殆どは範鋳法で鋳造されている。範鋳技術には翻模・製範・烘範・合金の調合・精錬及び鋳型への流し込み等。図1は山西候馬の東周鋳銅遺跡から出土した燧模と鏡の合金の成分が一致したので、範鋳技術も一致した、今では燧模を用いて鏡の鋳型を作ったと考えられている。

この一つの鋳型から我々が見出せるのは、体と水口及び体の下面の底板は全て一つに整っており、これはその燧模はまず塑像の母模を経て、母模で陰模を作り、再び陰模で我々が見ることの出来る泥製の汎用する陰模を作った。この模を用いて制作した泥の鋳型から、ヒモを通す場所を除いて、その他の紋飾は基本的に手直ししていない。この鋳型を乾燥後、焼いた後白地を注ぎ込む。鏡の鋳型皇帝の製作と燧模の製作は完全に一致し、鋳た鏡と鋳工芸も一致する。この種の鏡製造技術は、範鋳法鋳鏡の規範化であると考えられる。地下から出土した実物は遅くとも戦国早期すなわち紀元前476年頃には、中国の銅鏡の範鋳技術は既に規範化していたことを証明している。図2は1960年に山西の候馬東周時代の晋国の鋳銅遺跡から出土した遺物である。山西省の考古研究所は“鏡範”と認めており、この範の直径は12.5~13.5cm、厚さは1.6cm、範の面は比較的平たく、鏡の直径は10cm、彫りの深さは0.2cm、紋飾は4周しており、第一周は貝紋、第二周は動物紋で虎が六頭の動物を追いかけている。第三周は魚紋で、中間には4羽の鳥が見られる。筆者は、これは銅鏡の“母陰模”であり鏡範ではないと考えている。その理由はこの鏡の直径は10cmであるが、その範の厚みは僅か1.6cmであり、それは実際の操作では行うことが出来ず、なぜなら範の材料と模の材料が異なり、例えば範が薄すぎると、陰干し或いは焙焼工程で変形してしまう。それとこの鏡の中心にはヒモを通す部分がなく、鏡の縁には銅液を流し込む水口がなく、明らかに鋳鏡として用いる事が出来ず、やはり反復して母模を製作する過程のものである。この遺物が説明している事は、中国では東周時期すなわちBC770年ごろには、鋳鏡の模具は既に反復して使用された後にやっと製範の模具となり鏡が鋳造された。

 

 このことが語っている事は、鋳鏡と彫塑母模は共に異なる工芸である。例えていえば、東漢以後、鏡背の工匠は多分自分の手でこれ等鏡の背の紋飾の如何なる図形も製作でき、或いは背紋が規律性が非常に強い母模であれば、東漢以後、鏡背の紋飾に現れた線彫り及び浮き彫り工芸は、鋳鏡の工匠に言わせれば、不可能であり、そして専門に従事する彫塑技術の工匠によってやっと母模が彫られ、その後鋳鏡工匠は銅鏡の大小及び如何なる形状でも鋳型に流し込んだ後、ひっくり返して陰模をつくり、陰模の上に刻銘したあと再び泥で汎用の陰模を作った。この問題に関し、筆者は論文を書いたことがあり、ここに再度上述します。

 

(図3)

 

(図4)

 

(図5)

 

(図6)

 

中国の各種神獣鏡の鏡背紋飾から見出せることは、各種神獣鏡の背紋の表現技法は全部浮き彫りである。図3から図6は京都大学文学部博物図録【2】に刊載されている画紋帯神獣鏡の四箇所の神像であり、この像は豊満で面部は安祥であり、表現技法は繊細である。例えば図6中の神像は右手を伸ばし、その手のひらと指ははっきりと分かれており、面部は笑いながら羽人に説法しており、中国の伝統の神像の偶像と完全に符合する。

 

(図7)

 

(図8)

この彫塑技法の銅鏡は、中国の呉の地で出土した多くの画紋帯神獣鏡は全てこのような画面であり、中国の長江流域から広く出土している。例えば卾州市博物館には十枚近い画紋帯神獣鏡があり、その中にある鏡背紋には、神と獣の浮き彫り技法及び芸術効果は、図3から図6までの神と獣と一人の手で作り出されている。見出せる事は、この鏡の模の彫塑者は豊富に中国伝統文化の潜在意識を具備しており、謹厳な配置と爛熟な彫塑技法を具備している。それゆえ、この一枚の画紋帯神獣鏡はやはり中国呉地方の工匠の作品だと認定できる。中国で出土した直行銘重列神獣鏡及び各種分断式重列神獣鏡の背面の浮き彫り紋飾の中にも、容易にこの種の感受性を感じさせる。

 

(図9)

 

(図10)

 

 日本で出土した三角縁神獣鏡の背面の紋飾浮き彫り芸術の中には、この種の感受性は殆ど見つけ出せない。ただ人に感じさせるのは、日本の三角縁神獣鏡の背面の紋飾は、中国の神獣鏡の背面の紋飾の模倣であり、しかしその模倣の彫塑技術は、中国の神獣鏡の背面紋飾の彫塑技術の栖移住とは甚だかけ離れている。図7から10は一冊の図録の四枚の三角縁神獣鏡の中の神像であり、神像から見出せるのは、その彫塑技術の低さであり、これら神像かほとんど上面部の表情がなく、ただ人の五官組織を具備しているに過ぎない。

(図11)

 

(図12)

図11と12は中国の画紋帯神獣鏡の背紋の獣で、この獣の彫塑技法は成熟した浮き彫り技法です。この種の獣は中国の龍と同様に存在しない動物であり、神もこの世には存在しない人である。中国人は古くから吉祥を追及し、神は不死の人であり、獣は寿を奏でる。工匠が各種神獣鏡を発明したのは、吉祥に順応し、鏡を買う人あるいは用いる人を神獣の如く長寿を祝福した。その神と獣の形は中国漢末の三国及び南北朝時期の長江の南北は全て同じであり、この彫塑技法は漢末を経て三国・六朝から隋代の銅鏡に全て普通に見られる。図13と図14は日本の三角縁神獣鏡の獣であり、この獣の彫塑技法は中国の神獣鏡の彫塑技法は明らかに別である。この獣の形状を見れば、殆ど中国の伝統文化との関係は明らかにない。この一点から見れば、中国の神獣鏡の背面の文化芸術は日本の三角縁神獣鏡の背面の文化芸術とは、文化背景に属する工匠による塑造ではない。

 

(図13)

 

(図14)

 

(図15)

 

(図16)

 

(図17)

 

筆者は湖北省卾州市博物館で仕事をしており、卾州市で出土した多くの各種神獣鏡に対し製造方面の研究を行った後感じたことは、中国の呉地出土の各種神獣鏡の製模方法は、中国北方及び前朝鏡の製模方法は同じであり、これは各種神獣鏡はまず母模が彫塑された後陰模を経て陽模が作られた。この手順はまず良く練られた泥で一枚の神獣鏡の泥白地の鏡体を作り出し、この泥下地の鏡体の上にはただ鏡のヒモを通す部分と鏡の縁だけが有り、神と獣は別の泥を用いて彫塑したものを鏡下地の上に置いて一番目の母模を作る。母模は反復して使用でき、ある紋飾は陰模に刻まれる。そしてある紋飾は必ず陽模の上に彫られ、反復して使用され、彫られ、刻まれた後に、泥質の母模は必ず塑造となり鋳出された銅鏡と完全に同じ泥模の時、やっと鋳型システムに設置され、陰模になる。母模は陰干し後平板の上に放置され、
 

母模は鋳型システムに流し込まれた後やっとその抜き型が陰模となり、一部の銅鏡にある銘文は陰模に刻まれる。一部の三角形の鋸歯紋や複線紋等も全て陰模の上に製作される。陰模は陰干しし焙焼後再び脱ぎ型を造って陽模となり、陽模も陰干しと焙焼と経て陶質の模となりやっと突き固めて泥範を造るのに用いる事ができる。

 

 例えば図一の模と同じように、陽鏡模上の紋飾は全て既製品であり、陽模で突き固められた泥範には紐部分に置かれる泥芯で、鋳出される紐孔以外の浮き彫り紋飾部分は新たな装飾工程の必要がなく、ただ陰干しし焙焼で陶範を作った後鋳型に流し込んで鏡の白地となる。

 

 強調して指摘する必要がある。中国古代の戦国時代以降の鋳鏡技術は規範技術が成立して以来、その鏡模はただ鏡の背の紋飾だけを作出する模であり、鏡面範を作るときただ平板上で大小各種の面範を作り出せるだけであり、その製模には専門か必要なく、注ぎ込んで出来た銅鏡が未完成品のとき、鏡面は全て平直である。一部の鏡面が凸状を状態を呈しているが、これは鋳込んだ後の研磨加工中である。【3】。図15と図16はそれぞれ中国神獣鏡背紋の内の二つの神像肩上の漂帯で、この種の漂帯の造形が説明しているのは、漂帯は母模上に既に彫塑されて完成しており、陰模・陽模等を経て、鏡模で作り出された泥範後、紐部に置かれた泥芯以外、漂帯を含むその他の紋飾部位は再度修製の必要がない。しかし、日本の三角縁神獣鏡の背面の浮き彫り紋飾及び芸術技法から見ると、この鏡の製模工芸は決して上述の技法ではない。図17と18はそれぞれ日本三角縁神獣鏡の背紋上の神像肩上の漂帯を抜き出したものである。各々の条の漂帯の外の縁の凸線条から見出せることは、その漂帯の外周は規範的でない二つの溝線条であり、これは、この漂帯が母模上ではただ一条一条の少し高くなった漂帯の平面であり、これから陰模を造ったあと、陰模の紋飾上で各条の漂帯の縁を圧して陰線条を作り出している。これを用いて再び陽模を作った後、凸状の陽線条となり、それは我々が現在見ることの出来る三角縁神獣鏡の漂帯と同じであり、銅鏡の工匠と彫塑の工匠はイコールではなく、銅鏡の工匠の多くは彫塑造形の技術を備えていないので、陰模上に圧して作り出した漂帯は流麗でなく不均整であり、三角神獣鏡の面部と同じようにまるで表情が鈍い。

(図18)

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